昨日のしょこトラレポ「これからの校則」、参加できなかった私、大変興味深く読みました。ありがとう、しょこトラ。
またFacebookには後藤富和弁護士の投稿がどんどん上がってきているので、タイムラインで読むとシンポジウムの詳細が辿れます。後藤さん、いつもありがとうございます。
リアルタイムの会場の熱気を共有できなかったのはとても残念。でもSNS を通じてさまざまな立場の人間が、同じ目線で問題を考え、声を上げる機会が生まれたのは素晴らしいことですね。
トラ子も校則とは折り合いが悪かったクチです。違反していたわけではありません。これは絶対自信あり。生徒手帳を熟読して、違反ではないと確認してから行動に移していたのですが、それがどうやら「普通」のリミットぎりだったようで、周囲の人々をモヤつかせていたようなのです。
たとえば、トラ子の髪は少し茶色。それがあやしい。ナチュラルなの?
冬、寒くてたまらずダッフルコート(着用可となっている)を着ていくと、みんなはカーディガンにマフラーだよって言われる。
脚が冷たくて仕方がないから黒タイツ(これも可)履いていくと、そんなの履いてるのあなただけだから、ってまた言われる。
要するに、校則(このローカルルールそのものが実は問題なのだけど、それは一応置いといて)を守ったとしても、問題なのは、「みんな同じ」を受け入れられるかどうか、が大事なようなのです。
その点については、親である私も全く疎くて(着物がデフォルトの人間ですよ)、当時のトラ子に必要(だったかもしれない)なアドバイスをしてやることができませんでした。
結局、この「校則の範囲内」というのが逆に心象が良くなかったようで(指導できないですものね)、トラ子は教師の指導を聞かないわがままな子というイメージを持たれてしまったようです。その後、何かにつけ、小さなトラブルを繰り返しました。
今も思い出すと悲しくなります。朝がきて、学校に行きたくなさそうなトラ子の表情と、それを苛立たしく感じていた自分。なぜあの時もっとトラ子に心を寄せてやれなかったのか。
その時の私には、根拠がなかったのです。校則(およびその周辺の同調圧力には従うべきという考え方)に異を唱えるための正当な根拠が表現できなかった。これはおかしいと思っても、周囲のマジョリティには敵いませんでした。
でも、「人権」を通して眺めると「校則」というローカルルールの歪さが浮き彫りになります。教育は、学校はだれのためにあるものなのか。ようやく声を上げられる時代になったのだとほっとします。
長年にわたって培われてきた意識はなかなか簡単には変わらないかもしれませんが、まずは気づくところから。声を上げるところから。
現場の教職員のみなさんの中にもこの校則のあり方に疑問を感じている方はいらっしゃると思うし、実際、人権を意識した教育を実践する方が子どもたちとの親和性も高まります。
今回の取組みを契機に、教育現場の人権意識がどう変わっていくのか、注視したいと思います。
さなトラ 藤野早苗