娘が不登校を経験して以来、口にしなくなった言葉がある。
「頑張れ」
いやいや、もう十分過ぎるほど頑張ったから、今動けなくなったわけで…。もうこれ以上何を頑張ったらいいのだろう。「頑張れ」なんて、そんな無責任なことは言えないと、その時思った。以来、軽口を叩いて遊ぶのは別にして、娘に対してこの言葉を口にしたことはない。「頑張れ」と言われて頑張れるくらいなら、最初から頑張っている。それができないから、相談したり、キツい思いを吐露したりしているわけで、そこで「頑張れ」と言われてしまうと、思考停止である。
日本人は頑張るのが好きだ。努力も好き。逆に言えば、頑張らず、努力もせずに結果を出すこと(人間)を評価しない。ストイックに、自虐的に自らを追い込むことを良しとする。
一昨日のしょこトラの記事、「いじめは今後の人生を耐え抜くためには必要な経験と言う人がいる」というのは、頑張ることが好きすぎて、そのベクトルを間違えてしまった例であろう。
しかし、考えてみてほしい。「頑張れ」と言われるのと、「頑張らんでいいから」と言われるのと、どちらが気持ちが楽になるだろうか。「頑張れ」と言われて頑張れない自分を許せない子もいるだろう。どうせまた頑張れって言われてそれっきりだから、もう相談しない、と考える子もいるだろう。「頑張れ」は信頼関係を築くどころか、場合によっては相手に不信感を与えてしまう言葉でもある。取り扱い注意物件なのだ。
たとえば日本柔道。精神論、根性論でゴリゴリ頑張らせていた頃は、大きく世界に遅れを取っていた。しかし、ここ数年、指導者総入れ替えで、科学的根拠を示したトレーニングをリラックスした雰囲気の中で重ねているうちに、どんどん強くなった。体力だけではない。頑張らなくていいという指導は、精神てき余裕を生み、プレッシャーに負けない心を育んだのだった。
そもそも、この子が自分の子どもとしてこの世に生まれきてくれただけで嬉しかったのだ。頑張らんでも可愛いわが子なのだった。不登校にならなかったら、こんな風には考えられなかっただろう。目の前の娘を見ることなく、いつもやや斜め上に視線を上げて、頑張ってそこにいるべき娘を想像して、そこに追いつかないことにイライラしていたことだろう。恥ずかしい。それに気づかせてくれた「不登校」にはとても感謝している。
さなトラ 藤野早苗
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「下町ロケット」佃製作所が作ったトランスミッションを使った耕運機で作ったお米から作ったお饅頭だとか。ありがとうございました。