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体育祭についての一考察

体育祭シーズンも一段落した頃だろうか。最近は春に開催する学校も多いし。

今日はこの体育祭あるいは運動会と称されるものについて、疑問に思っていることを書いておこう。

これを言ってしまうと身もふたもないが、そもそも、体育祭は必要なのか。あの1日のためにどれだけの時間が潰れてしまうかご存知だろうか。学校は授業時間確保に必死になっているらしいが、体育祭を止めるだけでもずいぶん時間は確保できるはずだ。

体育祭を止めるなんてとんでもない。そう思っている人は多い。なぜか。だって心身の健やかな発達には体育は欠かせないし、体育祭のような行事を通して協調性が育まれるから。何より子どもたちが楽しみにしているから。

そうだろうか?
まず昨今の日本の気候を考えると、6月、9月の実施は無理だ。暑過ぎる。熱中症にならないことに細心の注意を払ってまで実施しなければならないこととも思えない。光化学スモッグの問題もある。地球環境が大きく変わっているのに、未だに一昔前の行事に固執する意味がわからない。

さらに、体育行事が心身の健やかな成長を促進するという考え方についてはアナクロニズムとしか思えない。先だって、木村草太さんの講演会のレポをくにトラが挙げてくれていたが、あの中に書かれていた組体操、ピラミッドの一番下段の子の背中には200キロの荷重がかかるという、あの事実をどうお考えだろうか。体育祭シーズンを迎える学校のグラウンドを前を通るたびにメガホン片手に声を張り上げる教員を見かける。
「早く!急いで!列を乱すな!」
協調性という呼称の下、行われるまるで調教のような指導。座るときは「体育座り」。ナチがアウシュビッツで囚われた人々に強要した考えさせない座り方。

そんなことがあっても、子どもたち自身は体育祭を楽しみにしているのだから…とお考えの方、あくまでも参考までに、ですが。スクールカーストの序列に、体育が大きく関わっていることをご存知だろうか。学びの場である学校において、勉強ができることは必ずしも尊敬に値するとは限らない。場合によっては教員からも迫害されることもある。ところが、スポーツができるということに関しては一様に評価が高い。健康で明るく素直ないい子という評価に結びつきやすいのだ。しかも、体育祭はクラス対抗だったり、色別対抗だったりの団体戦だ。そこで得点できる子はヒーローになり、一方運動が苦手な子はあからさまに足手まとい扱いを受けるわけだ。

こういうことを書くと、仕方ないよ、世の中ってそういうところだから。今から慣れておいた方がいいよ、という反応に会う。そうかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。しかし、これだけ世間でいじめ問題が取り沙汰されているにもかかわらず、その空気感の土壌となるスクールカーストを生み出すような行事を既定事項として何の疑問を持つことなく実施する学校の無神経さに呆れてしまうのだ。

体育祭が悪いわけではない。体育の中に未だ根強い鍛錬主義、全体主義が問題なのだ。スポーツが得意でも不得意でも、自分が楽しめる形でスポーツと向き合える一日。体育祭がそんな日であるなら、ぜひ開催していただきたいと思っている。

小中高、体育だけはずっと5だった
さなトラ 藤野早苗

ホームページもご覧ください。

体育祭についての一考察_d0378078_01171241.jpeg


Commented by 通りすがり at 2018-10-21 22:01 x
こんな記事もあります。
http://collegio.jp/?p=977
by sacfa2018 | 2018-10-17 00:02 | 学校 | Comments(1)

不登校当事者に伴走するボランティア「咲くふぁ福岡」です。当事者の話す会「アガパンサスカフェ」もやってます。


by sacfa2018
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