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木村草太さん「子どもと憲法」講演会でうけた衝撃

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929、大型だという台風を気にしつつ木村草太さんの講演会を聞きに行った。福岡市中央市民センター大ホール。ほんの少し空席があるものの、人々の熱気がすごい。木村草太さんは、現在首都大学東京で研究をしていらっしゃる、若くして日本屈指の憲法学者だ。時間になり彼が壇上に立つと、青白い光線が放たれたように思われた。なんというオーラ。彼の語り口調は静かで丁寧で、なのにウィットに富む。たぶん何時間でも聴いていられる。それほど話は卓越していたし、私の憲法に対する渇いた意識に潤いをもたらすものだったと思う。



「義務と権利はついセットで考えられがちで、それなのに憲法には権利ばかりが目立つ、これはよくないのではないかという意見があるが、憲法はそもそも国家に権力をもたせることを許す代わりに、国家が国民の権利を奪わない仕組みが必要だ。だから権利が多く書かれているのは当然である」というお話にうなりながら頷く私。そのように考えたことはなかった。第一、私の中学時代の公民では、権利を行使する前に義務を全うしろと教え込まれたのだった。それを当然だと信じていた。けれど、「義務を果たしていない者は何か好きなことをする権利などない・・・?」最近になり、この公民の先生の話は正しかったのだろうかと疑問を持つようになっていたのだったが、氏の説明を聞いてつかえていたものが下りた。権利を持つ者(国民)と義務を持つもの(為政者)の立場が違うのを混同したりすり替えたりしてはいけない。

憲法に謳われている権利は豊かだ。個人の尊重、差別されない権利、選挙権、学問の自由、生きる権利、思想の自由、表現の自由、好きなもの同士で結婚する自由、教育を受ける権利等々(講演会の資料より引用)。そうだった、言われてみれば私たちには持っている権利がたくさんあると気づく。これだけの権利を行使することによって私たちは私たち自身を守ることができる。しかも私だけ我慢すれば済む…と引っ込むのではなく、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(憲法12)のだ。そうでないとその権利は次第に使われなくなる恐れがある。頑張って行使し、同じような立場の人たちと共有していくべきもの…。

そうよそうよと私だけでなく、会場中が頷いているのがわかる。

さて本日のメインは子どもと憲法の関係である。氏のいくつかのトピックのうち、ここでは学校がらみの端的な例を紹介させていただきたい。一つは体育祭の組体操。もう一つはPTA。どちらも学校が憲法や法律の違反をしているという厳しい話。そのような状況下、子どもは(子どもの保護者も)憲法にある権利を行使することで、自分たちを守っていこうという話であった。

氏は続ける。組体操ならば、たとえば10段のピラミッドだったら (今もまだ行っている学校がある!) 、一番下の子どもにかかる負担は200キロにもなるそうで、それは子どもの背中で白鳳関が足踏みをしているに等しいのだと(!)。また、一番上に上る子どもは7メートルの高さになる。そんな高所だったら、建築現場で働く大人であれば命綱が付けられ、下にはけがをしないようにネットが張られる。なぜ大人の世界で守られている安全が、子どもの、それも学校では守られないのか。明らかに子どもたちが置かれている立場は憲法で守られているはずの命が脅かされている。

この話を聞いていて、実は私の中に「根性論」が身体化してしまっていることに気づかされた。辛い練習を乗り越え組体操を誇らしく保護者に見せることができるのはそう悪いことじゃないのではないかと、今もどこかで思っていたことがあぶり出されてしまった。完全に子どもの命に対する視点が欠落している。氏は、子どもの権利が、私のような無自覚に根性を求める者によって、相変わらずに傷つけられている現状を改めて指摘したのだった。現在不登校の子どもや家族を支援する活動をしている私自身に、無自覚が厳然と存在することに愕然とした。私たちはもっと権利を自覚しなければならないのだ。

もし子どもの安全が損なわれたら、国家に対し賠償請求権を行使する必要があることも知っておかなければならない。ただ、こんな権利を行使しなければならなくなる前に、学校の現場や大人が子どもの安全を守るべきだ。

PTAについては、子どもを守るための任意団体が強制になっていることが問題となって久しいが、会員でない親の子どもが差別を受けるいじめに社会がシフトし始めているという。氏の事例で紹介された集団登校の班にPTA未加入の家の子どもが入れないなど、子どもが受ける不利益のニュースは私も見たことがある。そういった事例はそれまでの個別の成り行きや感情が先に立ち、拒否する人の権利がないがしろになってしまったことからきているのだろう。憲法があまりにも自然に私たちを守ってくれているので、私たちは何かをする権利や拒否する権利を、忘れてしまったり、あるいは曲解したまま過ごしているのではないか。



講演を聞いているうちに、不登校の問題もおなじ理屈で憲法がゆがめられて解釈されているなあと思いあたった。子どもは学校に行く「権利」があるのであって、義務は大人が持つはずだ。そしてその義務とは、子どもを学校に強制的に行かせることではなく、学ぶ場を整えねばならないという、その意味での義務なのだ。すり替えて信じられていることにより、学校がつらいと思う子どもたちも、家族も、学校現場の先生たちもそれぞれが苦しめあいながら生きている現実がある。

それにしても憲法をはるかに凌駕するガッコウの風習っていったい…。



「改憲の必要性」が一部でかまびすしく叫ばれている。私たちは今まさにこれまで持つことができていた権利を放棄するか否かの瀬戸際に立たされていると考えたほうがよくはないか。私たちはもっと学ぶ必要があるのではないか。権利を持ち続けるために。

     

(力士の画像、お借りしています)


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   (チラシの画像お借りしました。ありがとうございます。)



くにトラ   鈴木久仁子

HPもご覧ください。

http://sacfa.yubunsuzuki.com/


by sacfa2018 | 2018-09-30 05:00 | 学校 | Comments(0)

不登校当事者に伴走するボランティア「咲くふぁ福岡」です。当事者の話す会「アガパンサスカフェ」もやってます。


by sacfa2018
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